大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

方言東西境界線を行き来した武将達

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方言とは、一言でその地方の昔からの言葉ですからやはり歴史は十分に勉強していないと方言は理解できませんね。逆は必ずしも真ならず。早速に方言東西境界線・北アルプスを行き来した武将達をピックアップしてみましょう。つまりはこんな知識があっても方言は理解できませぬ、という雑学ですが面白いですよ。

まずは木曽義仲です。源氏の旗揚げを知るや、とにかくそれまで準備をしていて虎視眈々と平家を狙っていた武将ですが、突然の情報、鎌倉時代飛騨方言の動詞連用形促音便の通りです。飛騨の守・平景家が京都に行っていて実は何と高山が留守、飛騨は手薄であると知るや怒涛の如く飛騨に攻め入りアッという間に飛騨平家を滅ぼし、飛騨を平定、続いて翌年は富山へ入り、倶利伽羅峠でまたもや平家の大軍を破り、北陸を平定、入洛したのですが、悲しぶえんの平茸、太宰の小説になっちゃいました。話を戻して彼が怒涛の如く飛騨へ攻め入ったとは、長峰峠から高根、朝日、美女峠を通って高山になだれ込んで来たに違いありません。木曽福島が彼のホームグラウンドです。今でこそ舗装道路の木曽街道・高山〜木曽福島間ですが、当時鎌倉時代は人がやっと歩いて通れる踏み分け道だったに違いありません。まさに東西方言境界です。そこを怒涛の如く旭将軍義仲の騎馬軍団が通過したのでしょう。

時は流れ、上杉と何度も戦った武田の騎馬隊、彼らも1564(永禄7年)に突然、飛騨攻めをします。なんと平湯峠経由。冬には北極顔負けの北アルプスです。冬には人の通行不可能な方言東西境界線です。夏は、といってもいったいどこまで続く深山渓谷ぞ、夏の人の行き来さえ拒絶するその平湯峠を武田騎馬隊は一気に駆け抜けたのです。やるう。当時の飛騨は幾人もの守護代が割拠、小競り合いしており、この虚をついての武田軍に皆ことごとく滅ぼされ、そして飛騨は甲斐武田の領地とあいなったのでした。

まさに無常の世、武田勝頼は死に甲斐武田は滅亡、益田の三木が北上、江間氏を滅し飛騨を平定、と思いきや、信長が本能寺で死ぬ、三木は後ろ盾を失う、秀吉の命をうけた金森長近が越前から攻めてくる、三木は自害、嫡子は平湯峠を目指し信州に逃げ延び得ず滅す。とまあ実に忙しく戦国武将が方言東西境界線あたりで攻防を繰り広げたのでした。

一番ゆっくりと、なかば物見遊山で方言東西境界線を越えたのが実は金森重頼(かなもりしげより)、金森長近の孫で金森可重の三男です。といっても・・・・。(長近は江戸時代となり飛騨を平定し、高山の町を作った人です。)1635(寛永12)武家諸法度改定、参勤交代制度の始まりです。さあ困った。江戸へ行列して来いと急にいわれても。当時、地図もない、野麦峠経由で信州松本へ抜ける事ができるらしい。人夫が冬ですら歩いてブリを運んでいると。ではそのルートを選びましょう。飛州藩大名・金森重頼は中山道に至るべく宿場の整備も出来ていないその道・ブリ街道(高山・江名子・美女峠・甲・秋神・高根・野麦峠・奈川・松本)経由の参勤交代を決行したのでした。行く先々で留めてもらう宿に窮したのでしょう。以後は金森大名の人生は北アルプス越え、高山・松本間の 参勤交代道の整備に注がれるのでした。ところがやはり世は無常、天領となり参勤交代が不要となった途端にせっかく整備した道はまたもとの獣道・魔の東西方言境界になってしまうのです。

そしてフィナーレが天領飛騨の最後の郡代・新見内膳です。実は時は冬、新見内膳はひとり元締手代・浅井豊助と共に野麦峠越えをしています。この事は故・司馬遼太郎氏もお知りでなかったようです。私佐七もいずれ死ぬ、そうしたら彼の地で司馬氏と酒を酌み交わして一晩話したい。と言いますのも不肖佐七のブログ・2006/10/05 司馬遼太郎・街道をゆく・飛騨紀行の通りですが
幕藩体制についても司馬氏・飛騨紀行は触れますがやはり天領制が飛騨方言に及ぼした影響は無いでしょうね。ところで最後の郡代・新見内膳については具体的に記述されていますがこれがまた一段と小説風で泣けてきます。彼は幕府の瓦解を高山で知った。そして鎮撫使という新政府の長官が来るらしいと知った時、この上は将軍と生死を共にする旨を部下に伝え、いずれやってくる鎮撫使を丁寧にむかえよと細かに指示し、また俵米すべてを地元民に与え、部下を全て残し、ひとり陣屋の裏木戸から江戸へ向かった。
司馬氏へ、実はひとりで、というのは史実ではないようですが。また前日には家族を江戸に先発させています。その後佐七が調べた限りでは、新見内膳は野麦峠を越え奈川の宿に泊まり、その後が分からないのです。やはり彼は将軍徳川慶喜と生死を共にする決死の覚悟で江戸を目指していたのでした。あくまでも筆者の推察ですが、誰かに奈川の宿で殺されたのでしょう。でないと私には彼の行動が理解できません。

不肖佐七が高山市教育委員会様にお伺い申し上げます。city.takayama.lg.jp/bunkazai/rekishi/index.htm 明治・大正時代記事に"慶応4年(1868)、飛騨国最後の郡代新見内膳が江戸へ逃げ、幕府直轄時代はあっけなく終わった。 とお書きですが、逃げたとは聞き捨てならない言葉です。もう少し具体的に記述してください。彼はたったひとり浅井豊助と冬の野麦峠越えをして主君徳川慶喜公の元をめざしたのです。それでも彼は陣屋を逃亡したとお考えですか。またこの際は全国の皆様へ、私・大西佐七は飛騨天領最後の郡代・新見内膳の最後の行動を故・司馬遼太郎氏と共に支持します。この点について私の思いは根本的に高山市と相容れません。
まとめ
飛騨の歴史を紐解きますと、随分沢山のお侍さんが方言東西境界線をいったりきたりされましたが、飛騨方言に対する影響はゼロでしょう。みんなようやるよ、佐七はつきあいきれんさ。
飛騨天領第二十五代郡代・新見内膳に捧げる
あなたの後に実はあなたの知己、梅村速水が明治新政府の高山県知事としてあなたに代わり飛騨を治める事になりました。が瞬く間に失脚、梅村騒動となりました。新見さん、あなたはどこで亡くなられたのですか。梅村は実は職を解かれて獄死です。だからあなたも私といっしょに梅村の霊に祈ってくださいますね。
金森長近の生涯についてお詫び・記事訂正 2006/10/16
最近、飛騨方言の歴史考察で概説として飛騨山脈を往来した武将についてあれこれお書きしました。既にお読みになった方もありましょうが、実は致命的な誤り、史実と異なる点がひとつありました。江戸時代に参勤交代制度が始まり、野麦峠越えを決行したのは孫の金森重頼です。金森長近ではありません。つい先ほどですが仕事の合間に何気なく読み返してみて、幾らなんでも長近の年齢がおかしいという事にピンときました。つまり百歳以上まで生きた事になるのです。没は1606年、京都の伏見です。参勤交代の始まる29年前です。

筆者は何も情報が無くて記事を書いていたのではありません。実は間違ったネット記事があり(どなたの記事かは言いたくない)、たまたま私がみつけ、裏を取らず鵜呑みにしてすぐに原稿を書き、アップロードした、というのが事の顛末です。ネット記事は半分がうそである、と説く社会学者もおられます。複数情報にあたり情報を慎重に吟味される事を皆様にお勧めして、自戒の言葉といたします。

さて男性の方には戦記物・戦国物がお好きな方がお見えでしょう。青春の城下町、郷土の英雄、しかもはるか昔の歴史上の人物ですから、ぞっこん惚れても罪はない、というわけですね、実は。私は嫌いです。人を殺すのが商売です。農民を苦しめるのが商売です。どうして好きになれましょうや。

件の訂正記事ですが、最近は飛騨方言の歴史の考察に少しばかり凝っていて、調べ物をすると嫌でも増えてくる知識をつい整理してお披露目したくなるというお笑い種ですが、懲りない私が今またあれこれ調べますと、実は金森長近は秀吉の小田原攻めに加勢すべく急遽、高山から軍を動かしました。美女峠・朝日・高根・野麦峠越えです。一刻を争う相当な強行軍であった事が推察されます。出家した晩年の金森長近は頻繁に京都へ行っています。遊びに行っているのです。野麦峠の逆方向です。戦にあけくれた時代の事、野麦峠など思い出したくも無いという事なのでしょうね。

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